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1: 歴ネタななしさん
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180820/k10011582511000.html

今から150年余り前、幕末の将軍、徳川家茂と慶喜が西洋諸国との間に取り交わした外交文書に使用した印の実物が確認されました。 調査にあたった専門家は「江戸時代に国を代表して押された印が残されていたのは非常に驚きで、大変貴重な発見だ」と話しています。


1: 歴ネタななしさん

見つかったのは、「文武両道の政治を行う」という意味の「経文緯武」と彫られた縦・横9.2センチ、重さ2.7キロの銀印で、徳川家に伝わる資料などを管理する徳川記念財団が蔵を整理した際に、漆塗りの箱の中に残されていました。

東京大学史料編纂所の保谷徹所長などが調べたところ、幕末に西洋諸国との外交が始まったあと、14代将軍の徳川家茂と15代将軍の慶喜が国の代表として外交文書などに使用していた印の実物と確認されました。

この印は安政5年、西暦1858年に結ばれた日米修好通商条約の批准書などに将軍の署名とともに押されたことが、残された書面から確認できますが、実物がどこにあるのかわかっていませんでした。

保谷所長は「今回見つかった印は、将軍が当時の日本の主権者であることを明らかにするために使われた。江戸時代に国を代表して押された印が残されていたのは非常に驚きで、大変貴重な発見だ」と話しています。

この印は、来月15日から新潟県立歴史博物館で開かれる「徳川の栄華」展で、来月30日までの期間限定で公開される予定です。


外交迫られ 正式な印を製作

東京大学史料編纂所の保谷徹所長によりますと、今回見つかった印は、安政4年、西暦1857年に幕府が製作を指示した記録が残されています。

その翌年の安政5年にアメリカやイギリスなど5か国との間に修好通商条約が結ばれ、翌安政6年に取り交わした批准書のうち、少なくとも日米、日英、日仏の書面には、将軍・家茂の署名とともにこの印が押されていることが確認できたということです。

また、文久遣欧使節を派遣した際の信任状にも使われているということです。次の慶喜の時期には、慶応3年(西暦1867年)に
デンマークとの間に取り交わした条約の批准書や、同じ年に弟の徳川昭武を将軍の名代としてパリ万国博覧会に派遣した際の信任状などに使用されています。

この印が作られる3年前には、アメリカとの間で日米和親条約が結ばれていますが、印は使用しておらず、当時の老中の署名があるだけでした。

しかし、その後、西洋諸国とのさらなる外交を迫られたことから、外交諮問役だった林復斎の進言により、文書に使う正式な印を製作することになったということです。

保谷所長は「幕末に和親条約を結び、外国とのつきあいが始まるということで、外国の書簡に一定の印を押したほうがいいだろうと幕府が諮問をして印章を作らせました。作られて以降は、将軍が相手国に送る国書にはこの印が押されていると思います」と話しています。


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10: 歴ネタななしさん
>>1
源氏の子孫でもないくせに、源を名乗る徳川氏
恥知らず

106: 歴ネタななしさん
>>10
記録と過去の事例を踏まえて、朝廷が藤原流松平家康が源氏の徳川に『復帰』することを公認した。
それ以上でも以下でもない。

123: 歴ネタななしさん
>>10
徳川家康の正式な名前は
徳川次郎三郎源朝臣家康

125: 歴ネタななしさん
>>123
太郎に相当するのは誰なん?

149: 歴ネタななしさん
>>125
次郎三郎は松平家当主が代々受け継ぐ名前らしい
だから家康自身にとって太郎に相当する人物はいない

2: 歴ネタななしさん
で、なんでも鑑定団の場合、おいくらになるの?

3: 歴ネタななしさん
既に大日本帝国じゃん

103: 歴ネタななしさん
>>3
国号は日本。
外交文書に書かれる国名は日本国、大日本国、日本帝国、大日本帝国と揺らぎがあった。
大は天子(皇帝)がいる国であることを示すもの(例 大漢、大唐)。
帝国という言葉は西洋諸国の国名表記(英語のkingdamなど)にならったものだろう。

157: 歴ネタななしさん
>>3
ウィキペ

万延元年遣米使節の正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順は
1860年、日米修好通商条約を批准した安政五年条約批准条約交換証書上で、
日本側を「大日本帝国 大君の全権」と記した。

8: 歴ネタななしさん
大日本帝国になってる
大英帝国から取ったんだろうな

31: 歴ネタななしさん
>>8 基本的に違うよ日本はインペリアル、つまりエンペラーの国
イングランドはロイヤル、女王または王様の国

104: 歴ネタななしさん
>>8
イギリスの国名を大英帝国と表記するようになるのはもっと後だよ。

18: 歴ネタななしさん
>江戸時代に国を代表して押された印が残されていたのは非常に驚きで、大変貴重な発見だ」と話しています。

保管のきく材質なのにそんなに簡単になくなるのかよ

107: 歴ネタななしさん
>>18
明治維新と廃藩置県の混乱で大名家の文物が流出したり紛失したりはよくあった。

21: 歴ネタななしさん
銀印ってメッキかな
純銀だったら盗難されて鋳潰されてるだろう

22: 歴ネタななしさん
こういうものが残されているなんて。
先の大戦の時に徴収もされず良かったねと思うけど。
やっぱり、旧徳川家って、大東亜戦争時に、優遇措置を受けられたりしたん??

27: 歴ネタななしさん
>>22
国宝級の刀剣だって残ってるんだしそりゃ優遇はされたんだろ

35: 歴ネタななしさん
>>22 徳川家じゃ無いけど、徳川家の親戚んちに、邸宅内に
米軍の兵隊さんが遊びにきてた
つう話はきいたことあるよ。華族だからでかーい屋敷だよ。

25: 歴ネタななしさん
徳川家って伯爵でしょ

26: 歴ネタななしさん
>>25
宗家も慶喜家も公爵

113: 歴ネタななしさん
>>26
宗家と慶喜家が同格公爵、

水戸家は昭和になって水戸黄門から始めた
「大日本史」が完成、この功績で侯爵から公爵に陞爵

37: 歴ネタななしさん
今頃見つかるなんて財団の連中は遊んでるんだろ
どこかのテレビ局に頼んでお宝探しをやってもらえよ。

42: 歴ネタななしさん
幕府なんて所詮、委託だしな
鎌倉時代から政府を委託してて朝廷ワロス

108: 歴ネタななしさん
>>42
いわゆる鎌倉幕府は頼朝が右近衛大将権大納言になって開いた個人事務所。
高位の殿上人は仕事を補佐するための事務所を開設する特権があった。
これを利用して配下の御家人を統括し土地争いなどの裁判を行う仕組みを作った。
さらに頼朝は義経追捕を理由としてそのための兵糧を徴収する権利を得た。
これを利用して御家人らに恩賞を与える仕組みを作った。
朝廷はすべてを委託したわけではない。

64: 歴ネタななしさん
この文書の大日本帝国の「帝」って天皇という認識?

とすると、実質的には徳川将軍が権力を握っていても
形式的には天皇が最高権威者というのが、幕府の公式見解なのか。

68: 歴ネタななしさん
>>64
だって、征夷大将軍って天皇が任ずるんだから当然だろう

79: 歴ネタななしさん
>>64
勅許問題が持ち上がるのも朝廷権威の高まりがあってこそな。
幕府の権威はペリー来航前からがた落ちだった。末端とはいえ幕臣の
大塩平八郎が反乱するくらいだし。
余談だが、大塩は将軍の介入による大坂統治の改善を期待していたらしい。
幕臣として将軍への忠誠はあったよう。

83: 歴ネタななしさん
>>79
江戸城で勅使と面会するときも、ずっと将軍が上座だったのに、
幕末には逆に勅使が上座になったらしいしな

102: 歴ネタななしさん
これは中々面白い発見じゃね
国交を持たざるを得なかった当時の日本が外交下手なのはしょうがないとしても、出来るだけ国際社会の常識を学ぼうとしていた証拠でもある
そして国号が変わっていないのだから明治維新で対外的に国体は変わってないよっていうことにもなる
まぁ「維新」だからそもそもそうなんだけど、当時の日本の指導者層がこの辺の流儀をしっかり身に着けてるってことだもんね

109: 歴ネタななしさん
明治維新150年なのに、タイミングよく見つかるもんだな

116: 歴ネタななしさん
>>109
「150周年だし、昔、見つけていたアレを出すか」

114: 歴ネタななしさん
徳川埋蔵金発見ってマジか!

ネタ元: ・【歴史】徳川家茂・慶喜の使用した銀印、実物が見つかる。「経文緯武」と彫られ日米修好通商条約の批准書などに押印