1: 歴ネタななしさん
2017y02m20d_081203000
本日5月22日は旧暦で鎌倉幕府が滅亡した日。そこで、同書の一部を抜粋編集し、なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのかを紹介する。

北条氏得宗の専制政治
山川出版社の高校教科書『詳説日本史』で鎌倉幕府が倒れた原因としてあげられているのは、次の三点です。

1)蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。
 
2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。 

3)畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。このような動揺を鎮めるため、北条氏得宗家の専制政治が強化されたが、それがますます御家人の不満をつのらせ

この中でもっとも重視されているのが、「得宗専制」と呼ばれる当時の政治状況でしょう。最後の執権となる北条高時の時代、得宗の家人の第一人者である「内管領」長崎高資が権勢を振るいます。これが御家人の反発を生み、倒幕運動が起こったということになります。 
1: 歴ネタななしさん
この中でもっとも重視されているのが、「得宗専制」と呼ばれる当時の政治状況でしょう。最後の執権となる北条高時の時代、得宗の家人の第一人者である「内管領」長崎高資が権勢を振るいます。これが御家人の反発を生み、倒幕運動が起こったということになります。

鎌倉幕府が倒れた背景には、ここであげたような歴史状況があったことは確かです。しかし、実際に倒幕の核となる存在が現れないと、なかなか倒幕などできることではありません。そこで登場したのが、後醍醐天皇です。

後醍醐天皇の権力掌握の野望
当時、天皇家では、後嵯峨天皇の子の代に、またしても皇位継承の争いが起こっていました。詳しい説明は省きますが、後嵯峨の死後、後深草上皇の皇統と、亀山天皇の皇統が並立し、幕府の調停でそれぞれの皇統が交代で皇位に就く両統迭立という方式がとられていました。

後深草の皇統は、院御所の持明院殿に住んだので持明院統と呼ばれ、亀山の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだので大覚寺統と呼ばれます。 両統迭立は、スムーズに実現していたわけではなく、両統が幕府に積極的に働きかけ、できるだけ自分に都合のよい結果を得ようとしていました。

亀山の後、同じ大覚寺統の後宇多が天皇になり、その後、伏見、後伏見という持明院統の天皇が続きます。後伏見の後は、大覚寺統の後二条が天皇となり、次は持明院統の花園が天皇となります。そして、その次の天皇が大覚寺統の後醍醐です。

しかし、大覚寺統では後二条が直系と見なされており、後醍醐は中継ぎの天皇にすぎません。そのため、皇太子には後二条の皇子である邦良親王が立てられ、後醍醐は、退位した後は後宇多から譲られた所領をすべて邦良に譲り、後醍醐の子どもたちも邦良に仕えることにされていました。

大覚寺統で皇統が続くわけですから、当然、持明院統は抵抗しました。しかし、邦良の後は持明院統の後伏見の皇子、量仁親王が立つということで、妥協したのです。 

ところが、後宇多法皇が没すると、風向きが変わってきます。祖父後宇多の後ろ盾を失った邦良側は、後醍醐に早く譲位してもらって皇位を確保したいと考え、持明院統も、邦良が即位すれば量仁が皇太子になるので後醍醐の譲位を望みます。後醍醐は、大覚寺統からも持明院統からも攻撃される立場になりました。

もし後醍醐が直系の天皇であれば、譲位して院政を敷くこともできます。しかし、後醍醐にその選択肢はなく、自らの皇統を続けていこうとすれば、あくまで皇位にとどまるしかありません。その最大の障壁が、両統迭立を支持する幕府だったのです。

そこで、後醍醐は、腹心の公家、日野資朝・俊基らに各地の武士を勧誘させます。しかし、これは京都の幕府の出先機関である六波羅探題に察知され、資朝らはとらえられます。これが正中の変です。

正中3年(1326)、邦良が没すると、後醍醐は皇子の世良親王を皇太子にしようとしますが、持明院統の巻き返しによって量仁が皇太子になります。

後醍醐は、皇子の尊雲法親王(後の護良親王)を天台座主(天台宗の総本山・比叡山延暦寺の住職)とし、僧兵勢力を頼ろうとします。こうした動きに危機感を持った大覚寺統側の腹心、吉田定房は、後醍醐の動きを幕府に密告します。これは理解できるところです。後醍醐が無謀な挙兵をすれば、大覚寺統そのものが倒れてしまうことにもなりかねないからです。定房は、それに恐怖感を持ったのでしょう。

全文はソース元で
5/22(金) 12:11配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/f045c07d0de5b94e29c6839e77aa557fa22f5e50


2: 歴ネタななしさん
キャバクラ幕府

11: 歴ネタななしさん
>>2
不覚にもw

10: 歴ネタななしさん
鎌倉育ちだけど、こんな所が日本の中心だったとか信じられんかった

14: 歴ネタななしさん
>>10
言うほど中心だったわけじゃなくね?

55: 歴ネタななしさん
>>10
安土とかねー
行ってみて
え?ここ?って感覚は楽しい

131: 歴ネタななしさん
>>55
戦国時代までは集住が進んでないから首邑といってもせいぜい数万レベルだからな
安土は灰燼に帰したから仕方ないとして、大坂、江戸と、集住によって飛躍的に都市が大きくなった
生産しない人間が集まった巨大消費都市の誕生で、経済もものすごく発展した

12: 歴ネタななしさん
片岡鶴太郎の北条高時役は圧巻だったな
あのお笑いの鶴太郎があんな凄い役者に化けるなんて誰も思わんかったはずw

16: 歴ネタななしさん
いい国作れなかったから禁止

22: 歴ネタななしさん
1192にできたんじゃないんだっけ

58: 歴ネタななしさん
>>22
どっちでも間違ってないけど今の教育だといい箱が主流

27: 歴ネタななしさん
NHKで再放送してる。真田広之が沢口靖子がいるのに宮沢りえと子作りしてた

31: 歴ネタななしさん
朕が新儀は未来の先例なりってね

後醍醐帝がもう少し器でかくて
部下の進言を聞ける人だったら
日本史はどう変わっただろうか

ひところ流行った架空戦記のノリで
書いてくれる作家さんいないかな(笑

43: 歴ネタななしさん
柄本明の高師直、陣内孝則の佐々木道誉はハマり過ぎ。

73: 歴ネタななしさん
新田義貞ごときに攻められた程度で一族郎党みんなで腹切りするような軟弱ぶりでは滅びるわ。
叡山や笠木に潜伏し、隠岐から逃げ出し、吉野に隠れる後醍醐帝のしぶとさに学んだのが時行くらいだものな。

112: 歴ネタななしさん
この時代なんかコアすぎて好きじゃないと付いていけないだろ
現代の方が余程奇々怪々だが

121: 歴ネタななしさん
>>112
いや、割と簡単だと思う
武士のトップがほしいから殺し合いを続けてた
でも結局泥沼化して足利時代でもまだ殺し合いを続け、
結局信長が中枢にいたほぼ全員駆逐するまで続いた

123: 歴ネタななしさん
>>121
尊氏がなぁ
みんなで力を合わせて勝つタイプの主人公だったせいだよな
粛清して仲間の力を削がないから足利本家の力はそこまででもなく
力を持った仲間が多すぎた
そいつらがいちいち従わないからそりゃあ収まらねーわ

141: 歴ネタななしさん
>>123
高師直とか弟の足利直義に助けられた部分が大きかったからな
庶子の足利直冬をぞんざいに扱ったり、結構冷たいタイプ
でも御家人には大盤振る舞いしたから好かれた
が、それが災いして結局足利氏の地盤は脆いままだった
要は祭り上げられたトップの域を出られなかったのよね
太平記での佐々木道誉との関係は面白かったけど

113: 歴ネタななしさん
新田義貞ってなんで有名じゃないの?
この人が鎌倉幕府滅亡させたんだろ

119: 歴ネタななしさん
>>113
楠木正成と同等レベルで有名だと思うが

122: 歴ネタななしさん
>>113
名家に生まれただけのラッキーマンの一発屋だから
だけど忠誠心だけは高い
そこがいまの政治家とは似てるようで違う

142: 歴ネタななしさん
>>122
一発も実力のうちだw 鎌倉要塞と決死の北条本部武士団だから、六波羅落とすより絶対キツイ

115: 歴ネタななしさん
後醍醐天皇は結果を見ると統治の基本的な部分が何にも解っていない人だったオチだよな
妙に持ち上げられて偉人扱いされているけど

380: 歴ネタななしさん
>>115
全ての書類を自分一人で決裁しようとした世界史上稀に見る馬鹿元首だからな

128: 歴ネタななしさん
北条ぶっ倒して室町じゃ将軍から守護まで源氏で独占してんな。

鎌倉時代はなんで源氏連中は大人しかったんやろ

130: 歴ネタななしさん
>>128
頼朝超恐いからなあ
身内だろうと裏切れば絶対に赦さん人だから
力が集中してた

132: 歴ネタななしさん
湊川の戦いに至る経緯もそうだし、保元の乱も確かそうだったと思うけれど、公家が軍事作戦に容喙して武家がそれに押し切られると負けフラグが立つよね…。

まあ日本史全体では「瀬田の唐橋を落として戦えば絶対勝てる!」に勝るフラグは無いかもしれんが。
あれなんか「戦争が終わったら結婚するんだ!」レベルの威力があるように思える

135: 歴ネタななしさん
>>132
正成の最後は悲惨すぎるわ
数は足りないし戦い方限定させられるし
そんなもん勝てるかよと

143: 歴ネタななしさん
>>135
坊門なんちゃらだっけ、ドラマであくどい描かれ方をされてる人。
史実はどうあれ、あれには殺意を覚えますな

209: 歴ネタななしさん
天皇が2人いるとかいうトンデモ事態を巻き起こした南北朝時代は日本の歴史上最大のスキャンダルやで
多くの国民は忘れてしまっているだろうが

213: 歴ネタななしさん
後醍醐帝の基地外っぷりが光る

221: 歴ネタななしさん
御内人を含む得宗家の勢力がまさにピークに達してた時に、
足利新田が東西で火の手をあげて、鎌倉を突かれて、ポッキリ折れた感じ。
むろん、後醍醐天皇の特異なキャラクターが引き金だが、
ピークで折れて、しかも北条一門及び御内人に裏切者はほぼなくて、見事に玉砕したのも特異だ。

226: 歴ネタななしさん
フランキー堺が悪いんだよな

232: 歴ネタななしさん
>>226
あのラスボス感は良かったなあ。
あのラスボスを倒すために忍従したうえで挙兵するのが、大河前半の革命物語。
後半は絶望と虚無の物語だな。

239: 歴ネタななしさん
>>232
鎌倉炎上の回は泣ける

234: 歴ネタななしさん
>>226
長崎は全て北条家の為を思っての事

228: 歴ネタななしさん
また大河でやってほしい

233: 歴ネタななしさん
>>228
三谷幸喜で鎌倉殿の13人を発表してる

ネタ元: ・【歴史】鎌倉幕府は、なぜ滅亡したのか?~「引き金」となった後醍醐天皇の常識外れ [首都圏の虎★]