歴ネタまとブ

歴史ネタのまとブロ

    カテゴリ:戦国時代 > 合戦

    no title
    【中国大返しの羽柴秀吉35000対明智光秀15000の兵が平野の山崎でぶつかった事は明智には愚策だ】の続きを読む

    no title
    1: 歴ネタななしさん
    信長の正面攻撃だった。
    今川は信長の動きをつかんでいたが
    軍を散開させていたために対応が遅れた。
    信長もまさか今川の正面だとは思っていなかった。
    突っ込んでいったらたまたま今川の本陣だった。
    ってほんと?

    【桶狭間の戦い】の続きを読む

    1: 歴ネタななしさん
       
    2018y05m25d_171439229

    上記の布陣ですが。各部隊の戦力は豊臣方
    真田信繁本隊三千五百、与力二千、計五千五百。毛利勝永六千五百。
    大野治房四千六百。速水守久隷下七手組一万四千六百。

    徳川方
    松平忠輝九千、松平忠直1万五千、井伊直孝三千。藤堂高虎四千五百、 本多忠朝五千五百、榊原康勝五千四百、酒井家次五千三百、
    前田利常以下二万。徳川家康一万五千、徳川秀忠二万三千、徳川義直一万五千。  

    【大阪夏の陣で七手組が出撃していれば?】の続きを読む

    main
    1: 歴ネタななしさん
    1575年6月29日(天正3年5月21日)三河国長篠(愛知県新城(しんしろ)市)において行われた、織田信長・徳川家康連合軍3万8千と武田勝頼軍1万5千との合戦。
    武田方の戦死者は山県昌景、土屋昌次、馬場信房などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人に上ったといわれる。
    これ以後武田氏の勢力は急速に衰え、1582年(天正10年)滅亡を招いた。
    この戦いにおいて、織田・徳川連合軍が新兵器の鉄炮を組織的に使用し、騎馬戦を得意とする武田軍に圧勝した点が注目され、従来の騎馬中心の個人戦から足軽の鉄炮隊を中心とする集団戦法へ移行する画期的戦闘と評価されている。

    【長篠・設楽原合戦の真実】の続きを読む

    main

    1: 名無しさん@おーぷん 2016/11/08(火)11:32:33 ID:Dzy
    柴田様と盛政は賤ヶ岳でサルと決戦や!っていっとるけどワイはどうすりゃええとおもう?


    【ワイ前田利家上司の柴田様と親友の秀吉の間に挟まれて困惑】の続きを読む

    このページのトップヘ