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1: 歴ネタななしさん
あの時潰しとけば後々楽だっただろうに

2: 歴ネタななしさん
東軍には豊臣恩顧の武断派大名が従っているんだ。
大坂城をいきなり攻めたら寝返りに遭って負けるのは家康

3: 歴ネタななしさん
東軍の連中なんてとっくに豊臣を見限ってる連中ばっかりだしむしろ我先にと従うだろう
加藤、福島、浅野息子をなんとかすれば楽勝

4: 歴ネタななしさん
>>1とか>>3のような楽天家でなかったから、家康は泰平の世を築くことができたのだろう。

家康なら、こういうのではないか?

「俺は豊臣恩顧の大名が簡単に豊臣を見限ると思うほど楽天家ではない」
「俺は大坂城が簡単に落とせると思うほど楽天家ではない」
「今秀頼を殺してしまえば徳川の世にすんなり移行すると思うほど楽天家ではない」

これを前提にしたからこそ、関ヶ原から豊臣滅亡まで14年もかけた。
家康の寿命ぎりぎりだった。家康はその翌年なくなっているからね。

7: 歴ネタななしさん
西軍も東軍も豊臣の為という旗印を掲げてたのに潰すわけないだろ

国民の為といいながら、政権争いしてるジャパンみたいなモンだ。
自民=徳川・民主=石田+西軍豊臣恩顧・公明=東軍豊臣恩顧・共産=?・国民新=?

8: 歴ネタななしさん
潰したけどなw

すぐに潰したかどうかという話なのに「潰さない」はないだろw

11: 歴ネタななしさん
関ヶ原の時の家康は五大老として戦っているから、将軍宣下も受けてないのに
豊臣家を潰す事は不可能。正当性もない。

14: 歴ネタななしさん
>>11
関ヶ原の戦後処置(含論功行賞)は徳川家だけで行われた。
また全国の金山等の支配も徳川家に移行した
豊臣家は210万石の天下人から65万石の大名に転落した。

正当性の問題じゃないな
征夷大将軍の「補任」は対朝廷問題なだけで豊臣に対する正当性など関係ない。
不可能ではないが、徳川政権の永続性を考えて手順を踏んだということだろう。

15: 歴ネタななしさん
関が原の時点では家康は豊臣の臣下の立場だし、淀殿も三成方を支持していた訳ではない。
(むしろ三成には何の援助もしていないし、対会津用ではあるが家康に大量の軍資金と兵糧米を提供しているぐらいだ。)
あの時点で家康に豊臣家を攻撃する理由が無い。

16: 歴ネタななしさん
攻撃する理由は大ありジャマイカ?

徳川の天下を作るためだよ、そんなことも知らなかったの?
たぶん、歴史を習ったばかりの子供でも理解できる

ただいきなり打ちかかっていくほど馬鹿じゃないだけ

正当性だけが行動論理なら、歴史に変化は起きないw

17: 歴ネタななしさん
同盟者である福島正則の親族の豊臣秀頼を攻撃する事は不可能。

18: 歴ネタななしさん

家康が政権奪取の為に動いた戦争ではなくて、三成方に無理やり家康謀反という形で嵌められた戦争だからだよ。 

いわゆる自衛の形なん。 じゃなかったら普通に潰す。 


 秀吉からは遺言で京都につめて政権を担当するよう言われてたし、別に無理から東西戦争なんて起こす必要なかった。 

19: 歴ネタななしさん
もう潰れたも同然だったから潰さなかった

21: 歴ネタななしさん
むしろあの時点で一番潰すべきは毛利だろ?
家康も吉川には借りが出来てるから、毛利のことは不問にして恩を売るか、綺麗さっぱり潰してしまうかのどっちかだったな。 
輝元がバカだったが家康の戦後処理は一番恨みが残るやり方だ。

22: 歴ネタななしさん
>>21
潰すつもりがそうならずに残ったから却って恨みを買うことになったんだろ

23: 歴ネタななしさん
関が原の時点での家康の目標は、まず西軍に勝つこと、次に重要なのは東軍・西軍どちらであっても豊臣恩顧の大名を矢面に立たせて力を弱めるもしくは潰すこと。この2点で関が原は戦術面・戦略面ともに家康の大勝利。 

その余勢を駆って大阪攻めを一気にやる!なんて云ったら東軍に与した豊臣恩顧の大名が一斉離反していかな徳川家といえど猛り狂う猛犬の処理は一瞬では出来ないから、一時的にでも全国が再び混乱状態となり、関が原で西軍敗北ということで政治的には力を失ったとはいえ兵力はほぼ健在な地方の西軍方大勢力が政治的にも息を吹き返し、家康が拾った関が原での戦略的大勝利の意味が殆どなくなる。 


関が原の勝利を政治に最大限反映させる為には嘘でも一旦矛を収めて論功行賞をする必要があった。本当は潰したくて潰したくて仕方なかったかもしれないが。 
これが我慢強くやれるのが家康の凄いところ。

24: 歴ネタななしさん
家康「徳川家の安泰の為には豊臣は潰しておかないと 大義名分があれば攻め込めるのだが秀頼め、なかなかボロを出さんわ」

といいつづけて十四年 しびれを切らした家康はついに何の大義名分もないまま挙兵した

28: 歴ネタななしさん
14年も待つぐらいなら配下の忍びを使って長期的に毒殺できたと思う
淀殿か秀頼どちらかだけでも暗殺しておけばもっと簡単に無力化できたはず

大阪夏の陣では家康が今川義元のようになる可能性もあった
真田幸村をなめすぎてた面もあるし若年世代による旗本弱体化は想像以上にひどかった
家康は危険な橋を渡りすぎ

34: 歴ネタななしさん
そんなことすれば黒田官兵衛あたりが大喜びで豊臣恩顧の大名連中をアジりまくっただろう。 
関ヶ原どころの騒ぎじゃなくなる。

35: 歴ネタななしさん
家康は豊臣恩顧大名の総力を減殺すれば徳川の天下になると考えたのだろう。
関ヶ原は俯瞰してみれば豊臣恩顧大名が真っ二つに分かれて殺し合い、勢力を半減させてしまったものだった。
これで家康の戦争目的は達した。

だから毛利も必要以上に追い詰めなかったし、島津など「恩顧」でないものも同様。
何よりも関ヶ原のきっかけになった上杉討伐が中止同然になってしまい、当事者の上杉は減封だけで生き残っている。

しかしこれが裏目に出たのが幕末。
上杉は別としても結局薩摩・長州に・・・・・

36: 歴ネタななしさん
流石に250年先のことまでは読み切れんわな

45: 歴ネタななしさん
豊臣家の直轄領に出入りしてる商人や武士や宗教団体は山ほどいたから
豊臣家を攻める=彼らを敵に回すで
猛烈な反撃を受けて対立する大名へ資金提供を始める

47: 歴ネタななしさん
関ヶ原の時点ではまだ秀吉が死んでから3年で、合戦に所属していた大名たちも皆秀吉を覚えているし、家康自身も秀頼に「不忠の上杉を成敗します」と豊臣家家臣として出陣しているんだよな 

そのことは関ヶ原に勝利しても尚、徳川家が人質にされるかもしれぬのに、秀頼の正室として千姫を差し出さなければならなかったことでもわかる 

大坂の役のときは秀吉の死から17~18年後、世代交代が進んで秀吉恩顧大名の息子たちが徳川軍の主力

家康だけはあいもかわらず70歳にして尚、徳川軍の総大将として大坂まで大軍引き連れて出陣してきたが 


53: 歴ネタななしさん
家康は二条城で会見するまでは、一大名として残すつもりだった。

54: 歴ネタななしさん
秀頼に一大名になる気がなかったからしょうがない

ネタ元: ・家康はなぜ関ヶ原の時に豊臣を潰さなかったか