1: 歴ネタななしさん
モンゴルは舐めプやったんか?
2: 歴ネタななしさん
四季の差やろ
4: 歴ネタななしさん
そもそも当時の航海技術や兵站面から島国への侵攻は端から厳しい
6: 歴ネタななしさん
属国の捨て駒やぞ
7: 歴ネタななしさん
モンゴルって海渡っての侵略成功したことなくね
8: 歴ネタななしさん
高麗軍 宋軍「モンゴルに命令されて死ぬとかやる気でねー」
9: 歴ネタななしさん
遠いしな
10: 歴ネタななしさん
1回目は対馬と福岡の一部の海岸占領されたよな
13: 歴ネタななしさん
なんで3回目は諦めたん?
18: 歴ネタななしさん
>>13
チンギスハンが死んでそれどころじゃなくなった
チンギスハンが死んでそれどころじゃなくなった
37: 歴ネタななしさん
>>18
チンギスハン「いや知らんぞ」
チンギスハン「いや知らんぞ」
15: 歴ネタななしさん
日本史の授業の時ここめっちゃワクワクした
16: 歴ネタななしさん
鎌倉武士がキチガイだった
モンゴルは遠洋でヘロヘロ
馬が使えないところで相手が射程倍の長弓で手出しできない
籠城するしかない
死体投げ込まれたり火矢含めて毎晩襲ってきて
精神を削られる
死体晒してもうくんなよ!ってやったら
なんか相手がぶちギレて攻撃頻度上がった
帰っていい?(却下される)
モンゴルは遠洋でヘロヘロ
馬が使えないところで相手が射程倍の長弓で手出しできない
籠城するしかない
死体投げ込まれたり火矢含めて毎晩襲ってきて
精神を削られる
死体晒してもうくんなよ!ってやったら
なんか相手がぶちギレて攻撃頻度上がった
帰っていい?(却下される)
17: 歴ネタななしさん
台風シーズンに南から攻め込んで来たから
19: 歴ネタななしさん
あの時代に海超えて侵略成功した国とかあんの?
22: 歴ネタななしさん
>>19
イングランド侵略したノルウェーの王様とかならいる
イングランド侵略したノルウェーの王様とかならいる
23: 歴ネタななしさん
>>22
そういやバイキングは強かったらしいな
そういやバイキングは強かったらしいな
26: 歴ネタななしさん
ギリシャ文明は海の民に滅ぼされたし、イングランドはローマの属州にされたし、我が国だって南方海洋民族が侵略してきたり大陸系が侵略してきたりで色々混じってる民族
21: 歴ネタななしさん
地の利やぞ
20: 歴ネタななしさん
神風やぞ
ちな天皇が吹かせた
ちな天皇が吹かせた
27: 歴ネタななしさん
神風説がいまだに残ってるが、本当は鎌倉武士は決して弱くなかったという説が濃厚
28: 歴ネタななしさん
20万ってモンゴルの海外遠征で最大の戦力やで
30: 歴ネタななしさん
鎌倉側は本体が到着する前に現地の先遣隊だけであっさり勝ってしまった
31: 歴ネタななしさん
南宋兵14万も最後までモンゴルと戦い抜いた中華の最精鋭やで
32: 歴ネタななしさん
歴史探偵でやってた
1隻当たり5頭馬を積んでいたが馬は神経質なので長い船旅で使い物にならなくなった、だから騎兵はほとんどいなかった
船底が平面の安い船で侵略したから船酔いで戦闘どころではなくなった
1隻当たり5頭馬を積んでいたが馬は神経質なので長い船旅で使い物にならなくなった、だから騎兵はほとんどいなかった
船底が平面の安い船で侵略したから船酔いで戦闘どころではなくなった
33: 歴ネタななしさん
>>32
なんで船底平面にしたんや?
馬鹿やん
なんで船底平面にしたんや?
馬鹿やん
36: 歴ネタななしさん
>>33
モンゴルに船の建造を命じられたのは高句麗(建設費用は高句麗が負担)で
高句麗から納期が厳しいので安くて建造期間の短い平面の船にして欲しいという要望とそれをokしたモンゴルの資料が残ってるって
モンゴルに船の建造を命じられたのは高句麗(建設費用は高句麗が負担)で
高句麗から納期が厳しいので安くて建造期間の短い平面の船にして欲しいという要望とそれをokしたモンゴルの資料が残ってるって
ネタ元: ・モンゴル襲来って士気の差で勝ったんか?
コメント
時化を甘く見ていた(というか知らなかった)
海を越えるため、得意の騎兵戦術が使えなかった
日本軍の準備が万端だった
こんなところかな
高麗軍1万前後や旧南宋軍約10万ばっか有名だけどそれと並行してクビライの主戦力だった遊牧民・華北人の軍も数万投入されてるから少なくともクビライは普通にやる気あったはずなんだよな
単純にこの程度の戦力じゃ日本攻めるには足りなかったって話
かと言ってそれ以上送り込んでも兵糧を現地調達できない
兵たちの士気を上げる略奪品も満足に無い
無理ゲーですわ
そりゃアイヌにだって敗けるわ
この時の半島は高句麗でも李氏朝鮮でもなく高麗よね
まとめサイトのコピペ丸写しなのバレバレではっず。
事前に降伏勧告に近い書状を送るなど相手に時間を与えたのが致命的だった
特に弘安と文永の役の間に7年も時間を掛けていたら、日本側が強固な防衛施設にまとまった数の兵士が常駐していることくらいすぐに見当がつくはず。
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