1: 歴ネタななしさん
雨の日に攻めれば武田は勝ってた
2: 歴ネタななしさん
結果論やめようや
3: 歴ネタななしさん
いや普通に織田徳川軍は武田の倍以上の戦力やし勝てんやろ
4: 歴ネタななしさん
そもそも武田軍は城攻めしてて落とせんうちに後詰めに来られたんやから負けは確定しとった
5: 歴ネタななしさん
さっさと撤退すれば良かったのにグダグダしてたから野戦築城する時間まで与えてそれ攻撃するとかやっぱ勝頼はアカンわ
7: 歴ネタななしさん
4万以上対1万2000だぞ
最初から勝ち目ない
最初から勝ち目ない
8: 歴ネタななしさん
武田はどこで間違えたんやろなあ
桶狭間で今川が負けたからこれ幸いと三国同盟破棄して東海道へ進出したら
北条が激怒して西進出来なくなりぐだぐだしているうちに織田が大きく成りすぎて勝ち目がなくなる
かといって上杉と信濃で終わりなき消耗戦やっても無意味やからなあ
桶狭間で今川が負けたからこれ幸いと三国同盟破棄して東海道へ進出したら
北条が激怒して西進出来なくなりぐだぐだしているうちに織田が大きく成りすぎて勝ち目がなくなる
かといって上杉と信濃で終わりなき消耗戦やっても無意味やからなあ
14: 歴ネタななしさん
>>8
駿府攻めんと今川と徳川攻めはできんかったんかね
駿府攻めんと今川と徳川攻めはできんかったんかね
15: 歴ネタななしさん
>>8
川中島やろ
上杉からすれば本拠地に近いしそら徹底抗戦するし素直に譲って美濃辺りにでも攻めてれば信繁も勘介も兵も多数討ち死にしなかった
川中島やろ
上杉からすれば本拠地に近いしそら徹底抗戦するし素直に譲って美濃辺りにでも攻めてれば信繁も勘介も兵も多数討ち死にしなかった
16: 歴ネタななしさん
>>15
美濃攻めは無理
行軍だけで一ヶ月以上かかる
美濃攻めは無理
行軍だけで一ヶ月以上かかる
17: 歴ネタななしさん
>>16
川中島に12年も費やすって考えたらまだ美濃の方が可能性あると思うけどな
川中島に12年も費やすって考えたらまだ美濃の方が可能性あると思うけどな
9: 歴ネタななしさん
鉄砲で数倍の騎馬隊に勝ったとかだと兵器の革新による勝利って言えそうだけど、マジで順当に勝っただけなんだよな
10: 歴ネタななしさん
>>9
初期の信長公記だと長篠本戦は鉄砲1000丁だから多いという訳でもないのよな
初期の信長公記だと長篠本戦は鉄砲1000丁だから多いという訳でもないのよな
11: 歴ネタななしさん
土木工事して土塁と堀作ってその上に馬防柵だからな
なおかつ寡兵で突撃したら負けるの確定
武田は相手陣地と兵力の差を知らなかったんやろ
なおかつ寡兵で突撃したら負けるの確定
武田は相手陣地と兵力の差を知らなかったんやろ
4: 歴ネタななしさん
雨天用の装備はあります
何も工夫なしで使うと思ってんのかよ
何も工夫なしで使うと思ってんのかよ
5: 歴ネタななしさん
信長はちゃんとウェザーニュース見てたらしい
6: 歴ネタななしさん
武田は元々寡兵だし戦うのが間違いだった
コメント
この時の勝頼は時間を無駄にするように対陣していた無能。
おさや回な
時間が経てば経つほど酒井忠次隊4000から背後から襲ってくるという事実は変わらないし
天候など関係なく、普通に戦えば織田軍の圧勝だな
ただ、「普通に圧勝でしょう」では面白くないから
武田騎馬隊がものすごいような、それに対して馬防柵を考案したような
鉄砲三段撃ちを考案したような、いろいろ話を盛っているだけ
結局鉄砲はほとんど勝利に関係なかった
長篠までの行軍がゆるゆるなのは雨を避けていたから
で、鉄砲はやはり重要な役割を果たしてたと思う。柵で食い止めた敵兵を槍などで相手するのは悪くないが、槍だけだと敵が少し距離をとると自分も柵を出ないと追い討ちができなくなるから。
柵外の雑兵は槍で付き、距離をとって様子見してる敵将や背を向けて撤退していく敵兵を鉄砲で狙ったんだとすれば、効率の良い戦いができたと思うわ。
>行軍だけで一ヶ月以上かかる
これよく見かけるけれど、織田が武田を滅ぼした甲州征伐では、信忠が率いる軍勢は美濃から信濃に侵攻してるわけで、逆は無理だとでもいうのだろうか? 古代から東山道として街道もあったわけだけし、峠が行軍の難所というのなら、平野部の幅の広い大きな河川も難所。単にその時期の武田の情勢判断では、織田と直接敵対したくないってのが大きいだけでは? のちには美濃の東部には侵攻してるわけでさ。
攻めるのは可能だろうが、美濃の国人衆を味方に引き込まないと一方的に叩かれそう。
行軍ゆるゆるというが速度的には常識的なのよね
織田徳川が現れて長篠城落とす前に、そっちを叩くことを目的にするグダグダっぷり。
上杉、北条、武田で連合組むくらいしないと勝ち目ないんじゃないか?まぁ無理だろうけど。
そりゃ援軍の到着までに長篠城落とせなかった以上そうするしかないしな
設楽原の大軍にケツ向けるのと長篠城の小勢にケツ向けるの、どっちを選ぶって話で
兵自体はそんなに強くないからな
美濃の方が甲斐より兵強いだろうし
美濃に攻めたら返り討ちにあうだろうな
どこの家中にもいたし。彼らは気象予報官も兼ねてたのかもね
あの、長篠の当時の織田軍にはその武田を返り討ちにするらしい美濃勢が多数参加なのに兵が強くないって論理破綻してるのでは…
ところが家康は攻めるぞ掛かるぞと見せかけて織田信長を呼び出した。信長は如何にもヤル気無さそうに見せながら心中は武田抹殺の機会に燃えて大量の鉄炮とヨーロッパ式野戦築城で武田軍を根切りにしてしまった
その話は甲陽軍鑑の脚色であって、軍議の内容なんて参加者が殆ど戦死してしまったので真相は分からない
武将の討死のほとんどが撤退戦の最中みたいな話じゃなかったっけ?
全然玉砕とか殉死みたいな状況じゃないような
地元民(徳川寄り)に天気読みが出来る奴でも居たのかねえ
信長軍到着してから川渡って城を背に布陣したの勝頼の方だよ。
信長がそれを聞いて喜んだって記述まで信長公記にある。
それまでの遠征や包囲の成果無しで帰れないって意地とサンクコストに引き摺られた決断だろうね。完璧に間違いだったけど。
攻め込むのは可能だけど、相手勢力を完全に滅ぼすや、占領地を維持するのが、よほどの国力差がないと無理ということだと思う。
上杉も関東に侵攻しても北条を滅ぼせないので、謙信が越後に帰国したら、奪い返されるを延々と繰り返した。武田が美濃に攻めてもて、維持ができないと時間と金を費やすだけになる。
甲州征伐の時は、岩村城を半年の兵糧攻めで皆殺しにして、奪い返し、木曽が寝返ったので、武田領への道ができた。そこを大軍で一気に流れ込んだので武田を滅ぼせた。更に東海道からは徳川も同時侵攻。こんなの機内の敵を滅ぼし終えた織田だからこそできた。
しかし、織田ですら、占領地にそこまでの軍をおけないので、本能寺の変の後で維持できずに放棄する羽目になったし、それ以前にも朝倉領を放棄して一向宗に奪われたりしている。維持するのが大変。
長篠城の周りに居たら天目山がそこで起きてたろうな
勝ち目があるとしたら打って出るしかない
甲陽軍鑑だと退却で死んだと明記されてるのは馬場信春ただ1人
後は全員設楽原の土と消えた
織田信長は別名梅雨将軍と呼ばれたほどで桶狭間の伝説みたく雨を呼ぶ、天気に愛された男だった
長篠の場合来るまで雨、来てから小雨、決戦時は晴れたという。だから適度に水を吸った土砂は野戦築城の建設を助け、決戦時は鉄炮を最大限に使えるようになった
コメントする