2: 歴ネタななしさん
反対に赤壁の戦いの曹操軍は80万とか号してたけど
8万くらいやろな(ソースなし)
8万くらいやろな(ソースなし)
4: 歴ネタななしさん
蜀(これは三国志の著者による春秋の筆法であって、実際は漢と自称)は人口90万人で兵力15万の超軍事国家やった
諸葛亮はイメージされる仁徳重視の統治ではのうて
塩と鉄の専売制と厳しい法治によって歳入と秩序を保つ専制支配を行っていた
諸葛亮はイメージされる仁徳重視の統治ではのうて
塩と鉄の専売制と厳しい法治によって歳入と秩序を保つ専制支配を行っていた
6: 歴ネタななしさん
>>4
兵力15万は無いやろ
魏が蜀を併合したときの戸籍やと
人口が4万増えて94万の兵力が10万とかやったで
兵力15万は無いやろ
魏が蜀を併合したときの戸籍やと
人口が4万増えて94万の兵力が10万とかやったで
9: 歴ネタななしさん
>>6
国家が滅亡したときって
国力がどん底のときやからやはり
それ以前の段階では15万ぐらいやな
国家が滅亡したときって
国力がどん底のときやからやはり
それ以前の段階では15万ぐらいやな
7: 歴ネタななしさん
魏は人口がかつての10分の1程度になったという当時の高官の証言があるから
後漢末の6500万人から全土で650万人程度になったとして
魏におったのはそのうち400万人程度やろから40万人とかか
領内に受け入れて屯田兵をやらせてた匈奴人はほとんど自分で戦えたはずやから
もっとおったかも
後漢末の6500万人から全土で650万人程度になったとして
魏におったのはそのうち400万人程度やろから40万人とかか
領内に受け入れて屯田兵をやらせてた匈奴人はほとんど自分で戦えたはずやから
もっとおったかも
13: 歴ネタななしさん
>>7
なんか戸籍に入ってない豪族の私民とか屯田民が結構おった説聞いたことあるな
なんでもそう考えないと晋が統一した時の人口と辻褄が合わんのやと
それで考えると各国実は倍くらいおったって話や
いくら昔とはいえ人口の10分の1も兵士にしとったら国が回らんしな
なんか戸籍に入ってない豪族の私民とか屯田民が結構おった説聞いたことあるな
なんでもそう考えないと晋が統一した時の人口と辻褄が合わんのやと
それで考えると各国実は倍くらいおったって話や
いくら昔とはいえ人口の10分の1も兵士にしとったら国が回らんしな
17: 歴ネタななしさん
>>13
辻褄が合う
晋が統一した直後はあまり変化なし
その後年に2%程度のペースで八王の乱が起こるまでは人口が増えていった
把握されてなかった人口が急に把握されるようになったというような増加率ではない
そもそも戦乱だからこそ人口を把握して徴税、徴兵を厳しく行わな諸国との戦争に勝つことはでけへん
辻褄が合う
晋が統一した直後はあまり変化なし
その後年に2%程度のペースで八王の乱が起こるまでは人口が増えていった
把握されてなかった人口が急に把握されるようになったというような増加率ではない
そもそも戦乱だからこそ人口を把握して徴税、徴兵を厳しく行わな諸国との戦争に勝つことはでけへん
11: 歴ネタななしさん
当時の記録では陝西にいたっては
胡漢の人口が相半ばしていたそうやから相当人口少なそうやな
胡漢の人口が相半ばしていたそうやから相当人口少なそうやな
21: 歴ネタななしさん
実際の戦闘なんて多くて2万くらいやったと思う
中国は伝統的に10倍にするし戦闘員以外が戦闘員の数の約2倍やろ
そう考えると80万って言われても8万、うち戦闘員で言うと2万くらいってのが妥当なんじゃないかと
中国は伝統的に10倍にするし戦闘員以外が戦闘員の数の約2倍やろ
そう考えると80万って言われても8万、うち戦闘員で言うと2万くらいってのが妥当なんじゃないかと
23: 歴ネタななしさん
>>21
明代に
ほんまに40万の軍を率いてオイラトを攻めたら
ろくに統制が取れず混乱してる隙を突かれて
皇帝が捕虜になってもうた(土木の変)ということがあったし
ましてや千年以上前とか精々数万から十数万程度の規模やろな
明代に
ほんまに40万の軍を率いてオイラトを攻めたら
ろくに統制が取れず混乱してる隙を突かれて
皇帝が捕虜になってもうた(土木の変)ということがあったし
ましてや千年以上前とか精々数万から十数万程度の規模やろな
30: 歴ネタななしさん
>>23
光武帝の昆陽の戦いでも100万と号した軍が40万とかだったり
その40万でも統制取れずに3000で大将を討ったわけやし
後漢~三国時代くらいじゃ10万以上の兵を統制無理やと思うわ
光武帝の昆陽の戦いでも100万と号した軍が40万とかだったり
その40万でも統制取れずに3000で大将を討ったわけやし
後漢~三国時代くらいじゃ10万以上の兵を統制無理やと思うわ
28: 歴ネタななしさん
そのサイトの想定では人口580万か
当時はまだ長江流域は未開発の蛮地で
中原に人口が集中してたから
それぐらいおってもおかしないやろな
当時はまだ長江流域は未開発の蛮地で
中原に人口が集中してたから
それぐらいおってもおかしないやろな
31: 歴ネタななしさん
>>28
漢代の人口が6000万人とか言われてるのにそれは少なすぎないか
漢代の人口が6000万人とか言われてるのにそれは少なすぎないか
33: 歴ネタななしさん
>>31
中国の戦乱期はリアル北斗の拳みたいなもんで人が死にまくるからな
軽く文明崩壊レベルや
というか北斗の拳のモデルが中国の武侠小説
中国の戦乱期はリアル北斗の拳みたいなもんで人が死にまくるからな
軽く文明崩壊レベルや
というか北斗の拳のモデルが中国の武侠小説
39: 歴ネタななしさん
>>33
それは戸籍管理ができなくなってるだけで実際の人口が減ってるかは疑問やない?
それは戸籍管理ができなくなってるだけで実際の人口が減ってるかは疑問やない?
32: 歴ネタななしさん
関係ないけどローマ帝国で最大動員可能数100万とかでカンネーの戦いで5~8万人しんでるって言うから一人の武将が指揮できる限界は精々数万なのでは
それでもめちゃ多いけど
それでもめちゃ多いけど
34: 歴ネタななしさん
>>32
1人の武将と複数人の部将の限界は数万やろな
ただし分進合撃と言って味方の軍が複数に分かれて進軍して合戦場に集合して連携して戦うとかなら
なんとか二十数万くらいまではいけたはずや
諸葛誕の乱とかな
1人の武将と複数人の部将の限界は数万やろな
ただし分進合撃と言って味方の軍が複数に分かれて進軍して合戦場に集合して連携して戦うとかなら
なんとか二十数万くらいまではいけたはずや
諸葛誕の乱とかな
37: 歴ネタななしさん
>>34
清の南進のきっかけになったサルフの戦いや
文禄・慶長の役のとき明が送ったのが大体15万やで
はるか昔とか20数万は無理やろ
清の南進のきっかけになったサルフの戦いや
文禄・慶長の役のとき明が送ったのが大体15万やで
はるか昔とか20数万は無理やろ
43: 歴ネタななしさん
>>37
1人の総大将が一つの戦場でコントロールするのに20数万は無理やで
複数人の大将があくまで別々の軍として協力連携するスタイルなら可能って話や
もちろん排泄物とか大変なことになるから
無理に20数万で本当に1点に集合するということはしない感じや
1人の総大将が一つの戦場でコントロールするのに20数万は無理やで
複数人の大将があくまで別々の軍として協力連携するスタイルなら可能って話や
もちろん排泄物とか大変なことになるから
無理に20数万で本当に1点に集合するということはしない感じや
42: 歴ネタななしさん
戸籍外の人口もおったやろけど
それでも実数は戸籍の記録からかけ離れた数字にはならへんで
史料にもとづいて人口の急減は起こってたと考えな魏晋南北朝期に
異民族の王朝が乱立して戦乱が長引いたことと辻褄が合わへんようになってまう
それでも実数は戸籍の記録からかけ離れた数字にはならへんで
史料にもとづいて人口の急減は起こってたと考えな魏晋南北朝期に
異民族の王朝が乱立して戦乱が長引いたことと辻褄が合わへんようになってまう
58: 歴ネタななしさん
呉滅亡の戦いとか戦場は散らばってるけど
晋側は合計すると本当に十数万〜二十数万の兵力はあったろうな
なんせ曹操の頃は中原は荒廃してボロボロだったけど
そっから半世紀かけて国力を回復させてきたわけやし
兵糧の生産力とかも差があるやろな
併合した蜀の国力もあるし
晋側は合計すると本当に十数万〜二十数万の兵力はあったろうな
なんせ曹操の頃は中原は荒廃してボロボロだったけど
そっから半世紀かけて国力を回復させてきたわけやし
兵糧の生産力とかも差があるやろな
併合した蜀の国力もあるし
コメント
当然ながら、各地の防衛やら予備兵なども考えると、実際に遠征に出せるのはいいとこ60%程度だろうけども
北伐時の戦闘員だけに限ると、5万も超えるかどうかじゃなかろうかね
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