1: 歴ネタななしさん
1745579841827

4: 歴ネタななしさん
鬼島津

72: 歴ネタななしさん
>>4人兄弟も朝鮮出兵のころには2人に減っちゃって寂しいわね
犠牲になったのだ

5: 歴ネタななしさん
息子がとんでもない外道

6: 歴ネタななしさん
no title

オーガという喩えは合ってる

15: 歴ネタななしさん
>オーガという喩えは合ってる
パパはこの京都観光で明智光秀が饗応役として出会っているのだが
茶の湯に案内されてそういう作法知らねぇからお湯くれって言ってるって言う記録が残ってたりする

8: 歴ネタななしさん
荒武者のイメージだがこの人自体は朝鮮出兵の敵味方含めた供養塔を高野山に寄進してたりする

14: 歴ネタななしさん
>8
戦果報告をフカシまくってて笑えるんだよな

10: 歴ネタななしさん
島津捨姦は移動距離とハプニングが凄過ぎて
よく帰還できたなぁと驚く

12: 歴ネタななしさん
当時は伝説の英雄の帰還じゃなくて
何で仲間見捨てて大将だけ逃げて帰ってきたの?っていう冷ややかな対応だったみたいだね

斉彬さんが美化しまくったから歴史改変で英雄になったが

11: 歴ネタななしさん
島津家久とどっちが強いんだろう?
ゲームの能力的には義弘の方が強そうだけど

13: 歴ネタななしさん
国内の戦果だけだと家久じゃね?

16: 歴ネタななしさん
島津四兄弟評
義久・三州の総大将たるの材徳自ら備わる
義弘・雄武英略をもって他に傑出する
歳久・始終の利害を察する知計が並なし
家久・軍法戦術に妙を得たり

19: 歴ネタななしさん
日向の伊東倒したの凄いのにその伊東が過小評価ていう

20: 歴ネタななしさん
関ヶ原のとき殆どの兵士は勝手に逃げてスレ画が帰ってくるころにはとっくに帰郷してたんだよな

22: 歴ネタななしさん
日本の端っこなのに中央とのパイプは太い

25: 歴ネタななしさん
家久は龍造寺隆信と長宗我部信親・十河存保を野戦で討ち取ってるのが凄い

27: 歴ネタななしさん
戦国も幕末も島津はクソコテ感が強い

30: 歴ネタななしさん
義弘は弟の家久亡き後にその息子の豊久と一緒にいるの良いよね
自身も長男が死んでるからお互いに親子みたいな感覚だったのかな?

33: 歴ネタななしさん
猫好きおじさん

37: 歴ネタななしさん
島津義弘は意外とまともって言ったら失礼だけど文化や信心ときっちりやってる

35: 歴ネタななしさん
混んでるから伊勢方面に逃げることにしたら結果的に家康の本陣前通過することになったおっさん

39: 歴ネタななしさん
>関ヶ原は陣中突破して逃げたみたいに言われてるけど
>実際には必死になって空いてるところに右往左往してただけだよね
徳川軍が攻めに転じた時に出来た隙間を衝いて前進しつつ弧を描くように逃げた

41: 歴ネタななしさん
no title

強そう

45: 歴ネタななしさん
義弘さんは最初「義珍」って名前だったわけで
誰かから偏諱されたとかなんかあったんだろう

48: 歴ネタななしさん
弘 は 広い 大きいなどの意味があり、ひろめる という意味もあるからいい字ではある

49: 歴ネタななしさん
義弘の親父の代で分家筋だったのが宗家分捕ってるのが強いわ

51: 歴ネタななしさん
no title


55: 歴ネタななしさん
島津4兄弟より強い宮部継潤とかいう坊主

56: 歴ネタななしさん
伊達はガレオン船造ったって話あるけど島津はそういうのは興味なかったんかね

57: 歴ネタななしさん
島津は劣勢になると強いけど有利な時はあんまりなイメージがあるわ

59: 歴ネタななしさん
no title

関ヶ原

60: 歴ネタななしさん
相手が弱腰だったとは言え琉球征服成功してるわけだしそれなりの外洋航海能力はあるのでは?島津

61: 歴ネタななしさん
島津豊久の知名度がこんなに上がるとは
漫画の影響は凄い

66: 歴ネタななしさん
豊久は家格的に逃げ損なって死んじゃっただけだと思うが
こういう扱いで喜んでるんだろうか

75: 歴ネタななしさん
no title

九州三国志

81: 歴ネタななしさん
センゴク読んで家久の強さはよくわかった

105: 歴ネタななしさん
no title

中馬「おかしか!また誤チェストにごわす!」
豊久「チェストばする前に名前を聞けばよか」
中馬「名案にごつ!さっすが中務大輔様は頭の出来が違うばい!」

106: 歴ネタななしさん
no title

>義弘愛馬
島津四兄弟の次男、義弘の愛馬 膝突栗毛の墓。
元亀3年(1572)の木崎原の戦いにおいて、島津義弘が伊藤氏家臣の柚木崎丹後・肥田木玄斎と戦った際に、愛馬が膝を折って主人を助けたため、以後「膝跪騂」と名付けられたという。この馬は牝馬であり、騂は赤茶色、つまり栗毛色のことである。膝跪騂はその後も義弘愛用の名馬として各地の戦に従軍し、長命であったという。昔は春を告げる初午祭の時、帖佐の人々は旧暦正月十九日に馬頭観音の代わりにこの墓へ詣でたという。墓の東側には、馬の飼育係りであった橋口対馬の夫婦墓がある。橋口対馬は義弘の家臣として文禄慶長の役や関ヶ原の戦いに従軍し、義弘のそばを守った。慶安2年(1649)に83歳で死去した。

109: 歴ネタななしさん
鎌倉室町期の島津氏ももっとフォーカス受けてほしい

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