2: 歴ネタななしさん
科挙とは
中国で598年 - 1905年すなわち隋から清の時代まで
約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である
同様の制度は中国だけでなく朝鮮ベトナムにも普及した
中国で598年 - 1905年すなわち隋から清の時代まで
約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である
同様の制度は中国だけでなく朝鮮ベトナムにも普及した
3: 歴ネタななしさん
明・清時代の科挙試験で採用された文体で、破題・承題・起講・入手・起股・中股・後股・束股の8部分からなる厳格な構成と、対句を多用する形式が特徴です。
1905年の科挙廃止とともに実用性は失われましたが、近年は中国の大学教育や文学研究において、その論理的な文章構成力や格調高い表現技法が伝統文化の視点から再評価されています。
現代の中国語圏では、内容が乏しく形式ばかりが整った空疎な公式文書や、マンネリ化した文章を指す批判的な比喩表現として日常的に使われています。
1905年の科挙廃止とともに実用性は失われましたが、近年は中国の大学教育や文学研究において、その論理的な文章構成力や格調高い表現技法が伝統文化の視点から再評価されています。
現代の中国語圏では、内容が乏しく形式ばかりが整った空疎な公式文書や、マンネリ化した文章を指す批判的な比喩表現として日常的に使われています。
5: 歴ネタななしさん
>3
ここすげえ重要
中国共産党が全力で排除しようとした旧弊
ここすげえ重要
中国共産党が全力で排除しようとした旧弊
4: 歴ネタななしさん
八股文とは中国の明や清の時代に科挙の答案として用いられた特殊な文体のことである
八股文は四書文、八比文、時文、時芸、制芸、制義とも呼ばれることがある
四書五経の中から出題された章句の意味について
対句法を用いて独特な8段構成で論説した
八股文は四書文、八比文、時文、時芸、制芸、制義とも呼ばれることがある
四書五経の中から出題された章句の意味について
対句法を用いて独特な8段構成で論説した
6: 歴ネタななしさん
洪武帝は軍師の劉基とはかって科挙には朱子の解説による四書を主眼とした
これは洪武帝や劉基が朱子学を奉じており
この学派が四書を重視していたためである
こうして宋代と代わって難解な教典である五経は二の次とされた
そして明朝期の受験生は答案の書き方として
八股文が指定された
明太祖は万能の天才である
これは洪武帝や劉基が朱子学を奉じており
この学派が四書を重視していたためである
こうして宋代と代わって難解な教典である五経は二の次とされた
そして明朝期の受験生は答案の書き方として
八股文が指定された
明太祖は万能の天才である
7: 歴ネタななしさん
清朝期の八股文は明の時代のものが踏襲された
中国に於ける八股文の使用は1902年(光緒28年)に清朝政府が科挙の試験での八股文の使用を禁止するに至るまで継続された
尚、2年後の1904年(光緒30年)に最後の科挙試験が行われ
翌1905年(光緒31年)には科挙制度そのものが廃止されることとなった。
ということで20世紀まで科挙どころか八股文まで使われていた
中国に於ける八股文の使用は1902年(光緒28年)に清朝政府が科挙の試験での八股文の使用を禁止するに至るまで継続された
尚、2年後の1904年(光緒30年)に最後の科挙試験が行われ
翌1905年(光緒31年)には科挙制度そのものが廃止されることとなった。
ということで20世紀まで科挙どころか八股文まで使われていた
8: 歴ネタななしさん
八股文は形式主義の極みとして現代では厭われているね
麻雀で例えるとハナっからフリテンや役無しで形テン狙うようなもん
麻雀で例えるとハナっからフリテンや役無しで形テン狙うようなもん
9: 歴ネタななしさん
73歳にしてやっと進士に合格できた詹義という人物が遺した自嘲の詩
読尽詩書五六担
車に山ほど積んだ書物を読んで
老来方得一青衫
年老いてやっと手に入れた官吏の肩書き
佳人間我年多少
娘さん達に歳はおいくつと訊かれたら
五十年前二十三
50年前は23と答えるさ
読尽詩書五六担
車に山ほど積んだ書物を読んで
老来方得一青衫
年老いてやっと手に入れた官吏の肩書き
佳人間我年多少
娘さん達に歳はおいくつと訊かれたら
五十年前二十三
50年前は23と答えるさ
13: 歴ネタななしさん
宋代は軍縮してたイメージがあるから士大夫に殺到してそう
他の時代より倍率高かったのかね
他の時代より倍率高かったのかね
11: 歴ネタななしさん
朝鮮の科挙は両班の子弟が主に受けていたとのこと
貴族によるノウハウの独占って感じ
貴族によるノウハウの独占って感じ
15: 歴ネタななしさん
最終試験の殿試は皇帝からの下問に対して意見具申をするという形で行われるのだが
『朕は日夜勉学に励み熱心に政治を執っているが天下は思うように定まらない。これはなぜか。それを改善する方法とは?』
てな具合の回答するのに神経を使う問題が出される事も多かったという
『朕は日夜勉学に励み熱心に政治を執っているが天下は思うように定まらない。これはなぜか。それを改善する方法とは?』
てな具合の回答するのに神経を使う問題が出される事も多かったという
18: 歴ネタななしさん
どの皇帝が出題するかで難易度が激変しそう
朱元璋や雍正帝あたりはルナティックだったんだろうな
朱元璋や雍正帝あたりはルナティックだったんだろうな
35: 歴ネタななしさん
>>18
雍正帝は理不尽ではないけど冷厳無比だからね…
雍正帝は理不尽ではないけど冷厳無比だからね…
16: 歴ネタななしさん
隋代の科挙は、秀才・明経・明法・「明算」・明書・進士の六科
唐では、秀才、進士、明法、明書、「明算」などの科目が設けられた
王安石が進士以外デリートしたぜ!
唐では、秀才、進士、明法、明書、「明算」などの科目が設けられた
王安石が進士以外デリートしたぜ!
25: 歴ネタななしさん
>16
政治的に対立してた司馬光が王安石の改革を踏襲した稀な例でもある
政治的に対立してた司馬光が王安石の改革を踏襲した稀な例でもある
19: 歴ネタななしさん
元々進士科以外ほぼ不人気だし、合格してからの立場に変わりはないんだから一本化して良かったのだろう
22: 歴ネタななしさん
大半が論述だった科挙試験の採点基準が気になる
まさか袖の下で左右されることはなかったんだろうが明文化された採点基準はあったのだろうか
まさか袖の下で左右されることはなかったんだろうが明文化された採点基準はあったのだろうか
26: 歴ネタななしさん
殿試の場合はまず天子が直々に任命した20?30人の学者によって一次審査が行われ
それが済んだのち天子が立ち会う覆考と呼ばれる二次審査が行われた
答案は姓名のところに紙が貼られそれぞれどの受験者のものかわからないようになっており
賄賂や贔屓の類は通用しないというのが建前だった
それが済んだのち天子が立ち会う覆考と呼ばれる二次審査が行われた
答案は姓名のところに紙が貼られそれぞれどの受験者のものかわからないようになっており
賄賂や贔屓の類は通用しないというのが建前だった
24: 歴ネタななしさん
受験者の名前は隠されるし、筆跡から個性も消えてるから採点での不正は起こしようがなかったと思われる
27: 歴ネタななしさん
あのフォントそのまんま文章は筆跡抹消の意図があるンスね!
31: 歴ネタななしさん
その時代の信頼できる学者複数の査読があれば信頼できる採点だったんだろうな
殿試の最終順位は差し替える余地があったにせよ
殿試の最終順位は差し替える余地があったにせよ
33: 歴ネタななしさん
>殿試の最終順位は差し替える余地があったにせよ
永楽帝「『孫曰恭』が状元に内定してるみたいだけど曰恭の二字を併せると『暴』に似て不吉だから三位に落とすね…」
永楽帝「『孫曰恭』が状元に内定してるみたいだけど曰恭の二字を併せると『暴』に似て不吉だから三位に落とすね…」
34: 歴ネタななしさん
燕賊にしてはヌルい処置だね
36: 歴ネタななしさん
翰林院で学問に没頭していたいって合格者もいたんだろうか
別にガツガツ要求しなくても富貴は入ってくるし
別にガツガツ要求しなくても富貴は入ってくるし
37: 歴ネタななしさん
官僚の世間体維持するための暮らしや交際には莫大な金が必要になるので…
金も地位もいらねえって人はそもそも役人目指さない
金も地位もいらねえって人はそもそも役人目指さない
ネタ元: ・




コメント
受かった自分にご褒美だ。
一族郎党向こう三軒両隣『よろしくニキー』
地主層(士大夫)という貴族より厚みのある階層が生まれてその階層内から官僚が生まれるようになったけど、官僚自体は世襲出来てないよ。学歴が完全には遺伝しないようなもんだ。
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